こんにちは。
心理カウンセラーのゆみです。
昨夜、ネットサーフィンをしていて思わず動きが止まりました。
フランシスコ教皇の訃報——。
「静かに、バチカンの自室で息を引き取った」と、
たったそれだけの一文に、私はなぜだか胸がきゅっと締めつけられました。
教皇は私にとって「遠い誰か」だったはずなのに、
心の奥に波紋が広がっていくのを感じたのです。
私自身は、無宗教です。
けれど、
フランシスコ教皇が発してきた言葉や姿勢には、
ずっと親しみを感じてきました。
彼の言葉には、信仰の枠を超えて
「人としてどう生きるか」を
問いかけられているような感覚がありました。
だからこそ、今はとても悲しい気持ちです。
思い返してみると、
彼の存在を知ったのは、今から10年以上前。
南米出身の教皇としてはじめて選出され、
飾らない言葉と行動で多くの人を惹きつけていました。
差別や権威に対してはきっぱりとした態度を取りつつ、
弱い立場の人の声にじっと耳を傾けるその姿に、
「本物の優しさ」みたいなものを感じていました。
彼の死を知ったとき、
不思議と「旅」のことが思い浮かんだんです。
フランス・カンヌでの、静かでまぶしい記憶

昔、旅行会社に勤めていた頃に、
仕事で訪れた南フランスのカンヌ。
映画祭で有名な街ですが、
私が心を奪われたのは、華やかさではなく、
地元の人たちが暮らす石畳の細い路地や、
小さなカフェで過ごす静かな午後でした。
観光地というより
「生活の中の美しさ」に触れたような感覚。
あのときの体験は、
私の「感じる力」の原点になっている気がします。
心の琴線に触れるものは、
派手さや話題性じゃない。
それに気づけたのは、
あの旅のおかげでした。
そして今、
心理カウンセラーとして人の話を聴く仕事をしていると、
あのとき感じた「静かに心をゆるめていく時間」の大切さを、
より深く実感するようになりました。
死を前にしたとき、人はどんな旅を思い出すのだろう?
フランシスコ教皇の死をきっかけに、
そんな問いがふと湧いてきました。
人は亡くなるとき、
自分の人生の中でどんな景色を思い出すんだろう?
苦しかったこと? 頑張ったこと?
それとも、誰かと笑った午後や、
風のにおいを感じた瞬間?
私が死を意識するときに思い出すのは、きっと、
カンヌで食べた、バケツ一杯のムール貝の味だったり、
異国の人と目が合って、
なんでもない会話を交わしたときの
ぬくもりだったりする気がします。
「生きる」というのは、
何かを成し遂げることだけじゃなくて、
そういう“静かな体験”をいくつ積み重ねられるか、
なのかもしれません。
これからの旅は、誰とどこへ?
最近、また少し旅に出たいと思うようになりました。
ここ20年くらいは日本から出国していないけれど、
心の中では、いつでも「旅ごころ」が
育っていたのかもしれません。

イタリアの小さな村に行って、
地元のパン屋さんで朝ごはんを食べてみたい。
スイスの山に登って、雲と風と会話してみたい。
できれば、大切な人と一緒に。
だけど、ひとりでふらっと行く旅も、やっぱり好きです。
「旅に出たい」という気持ちは、きっと
「今の自分のままで、どこまで行けるか知りたい」っていう、
心の声なのかもしれません。
教皇の死は、私にとって、
「あなたは今、どう生きてる?」と
そっと問いかけられたような出来事でした。
今日という一日も、ある意味では旅のひとつ。
人の死に触れたとき、
自分の生き方が照らし出されることがあります。
今日の私は、少し立ち止まって、
自分の旅を振り返ってみました。
そして思ったのは、
特別な場所に行かなくても、
「今いるこの日常」の中にも、
旅のような瞬間はあるということ。
誰かの言葉に心が動いたとき。
季節の香りに、記憶がそっと開かれたとき。
それらもきっと、
立派な“旅の一部”なんじゃないかな。
これを読んでいるあなたの中にも、
そんな旅がたくさんあるはず。
心の中の静かな記憶を、
たまにはそっと振り返ってみるのもいいかもしれません。
コメント