1. はじめに
産業カウンセラー神田裕子氏が執筆し、株式会社三笠書房から出版予定の書籍『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』について、2025年4月の刊行前に公開された表紙、帯、目次などの事前予告情報がインターネット上で大きな波紋を呼びました。特に、発達障害(ASD、ADHDなど)やその他の疾患を持つ人々を「困った人」と表現し、動物に例えるなどの描写に対し、発達障害当事者団体をはじめとする多くの人々から、差別や偏見を助長するとの強い批判が寄せられました。
本記事は、公開されている関連情報(出版社、著者、当事者団体の公式見解、報道内容)および書籍の具体的な表現内容に基づき、今回の論点を整理し、多角的な視点を提供することを目的とします。
2. 書籍の概要と出版社・著者の見解
書籍の目的と構成:
出版社(三笠書房)および著者(神田裕子氏)によると、本書は職場の対人関係において「困った人」を避けずに理解し、建設的に関わる方法を探求するものです。「困った人」を知る手がかりとして6つのタイプに分類し、それぞれの特徴と対処法、コミュニケーション手法などを解説しています。
出版社・著者の主な主張:
- 基本姿勢: 本書は「困った人」を一方的に断罪するのではなく、「相手を知ろうとする姿勢」や「お互いさまの精神」に基づき、相互理解を促進することを目的としている。
- 「困った人」の定義: 病気や障害の有無に関わらず、誰しも誰かにとって「困った人」になりうるという前提に立っている。
- 著者の意図: 著者自身や家族にも発達障害の特性傾向があり、他人事ではない。差別意識や偏見は全くなく、「知ることの大切さ」を伝え、適材適所で働ける環境への願いを込めて執筆した。
- 動物イラスト: 人間のイラストではリアルすぎるとの意見から、「愛らしさ」「ピュアさ」の象徴として動物のモチーフを採用した。差別的な意図はない。
- 簡易診断チャート: あくまで相手を理解するための「目安」であり、医療的な診断ではない。
- 謝罪: 事前予告の限られた情報の中で、不快な思いをさせた方がいたことについて謝罪。表現方法については、より慎重に検討・工夫すべきだったと認識している。
- その他: SNS上での著者へのなりすまし、デマ拡散、誹謗中傷に対しては法的措置を検討する(出版社)。
3. 批判されている主な表現と問題点
本書の表現に対し、差別的である、あるいは差別や偏見を助長するとして、主に以下の点が批判されています。
- 「困った人」というラベリング: ASD、ADHD、愛着障害、トラウマ障害、さらには疾患(自律神経失調症、うつ、更年期障害など)や世代ギャップといった、多様な背景を持つ人々を一括りに「困った人」と断定的にラベリングしている点。これは個々の人格や状況を無視した単純化であり、スティグマ(負の烙印)を強化する恐れがあります。
- 診断名とネガティブな行動/事例の結びつけ: 特定の診断名を「こだわり強めの過集中さん(ASD)」のように特定の人物像と結びつけたり、目次内の事例見出しで「取締役にも平気でタメ口(ASD)」「異臭を放ってもおかまいなし(ADHD)」「同僚の功績を平気で横取り(愛着障害)」など、診断名と否定的な行動を結びつけている点。たとえ個別の事例紹介だとしても、その診断名を持つ人々全体に対するステレオタイプ的な見方や偏見を強化・助長する可能性があります。
- 動物イラストの使用: 各タイプを動物(または動物的特徴を持つ人物)のイラストで表現している点。著者は「愛らしさ」の意図を主張しますが、文脈によっては、特定の特性を持つ人々を非人間的なものに例え、問題を矮小化したり、「言葉が通じない存在」という見方を助長したりすると受け取られる可能性があります(発達障害当事者協会の懸念)。
- 「簡易版 タイプ診断チャート」: 医療的診断ではないとしつつも、「診断」という言葉を用いることで、安易なカテゴライズや誤解を助長する可能性が指摘されています。
- 対立を煽るような表現: 「なぜ、いつも私があの人の尻拭いをさせられるのか?」「『戦わずして勝つ』ためのテクニック」といった表現が、職場内の対立構造を前提とし、「困った人」とされる側を一方的に問題視する印象を与えるとされています。
4. 当事者団体の見解
- 発達障害当事者協会:
- 本書の表現が発達障害者の尊厳を傷つけ、差別や偏見を助長すると深く憂慮。
- 「困った人」というラベリング、動物イラスト、「異臭」「手柄横取り」などのステレオタイプな記述、精神疾患等も同様に扱う点を問題視。
- 出版社に対し、表現のコンプライアンス上の適切性、アートディレクションの適切性、断定的記述の適切性について見解を求める質問状を送付。
- 誤解や偏見を助長する表現には毅然と対応する姿勢を示しています。
- 日本自閉症協会:
- 本書は障害に対する誤解を生み、差別や偏見、分断を助長するものと判断。
- 診断名と「困った人」の安易な結びつけ、特異な事例の強調、当事者の尊厳を傷つける点を指摘。
- 重要なのは作者の意図ではなく、本が当事者や社会に与える影響であると強調。
- 出版社にデリケートなテーマを扱う際の慎重な姿勢と適切な対応を期待しています。
5. 総合的な分析とここまでの結論
神田裕子氏の書籍『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は、刊行前の事前情報公開段階で、その表現方法を巡り大きな論争を引き起こしました。
出版社と著者は、差別的な意図はなく、相互理解を促すことが本書の真意であると説明し、表現の配慮不足については謝罪しています。しかし、「困った人」というラベリング、診断名とネガティブな行動の安易な結びつけ、動物を用いた比喩表現など、書籍の根幹に関わる表現が、依然として差別や偏見を助長する可能性が高いと指摘されています。
特に、発達障害当事者団体が公式に強い懸念を表明している事実は、これらの表現が実際に当事者の尊厳を傷つけ、社会的な誤解を生むリスクをはらんでいることを示唆しています。著者の意図と、その表現が社会(特に影響を受けやすい立場の人々)にどのように受け取られるか、その影響力との間には、大きな隔たりが見られます。
結論として、本書を巡る一連の出来事は、たとえ善意に基づいていたとしても、特定の属性を持つ人々に関する情報発信がいかに慎重さを要するかを改めて浮き彫りにしました。職場における多様性の尊重や、精神疾患・発達障害に関する適切な情報提供のあり方について、社会全体で議論を深める必要性を示唆する重要な事例と言えるでしょう。出版社と著者が表明した「表現方法の再考」が、今後の具体的な対応にどのように反映されるか注視が必要です。
6. 批判の的となった心理的背景の考察
1. ラベリングとスティグマ化
- 「困った人」ラベリング
書籍は、ASDやADHDなど診断名や疾患に該当する人々を「困った人」と一括して紹介し、その特徴や対応策を示しています。しかし、社会には“〇〇の特性=困った存在”というスティグマ(偏見)が根強くあります。このようなラベリングは、当事者や周囲の人に「その診断名を持つ人=厄介な存在」という認知バイアスを強化させ、社会的排除や自己否定感を助長しやすくなります。 - 「自分も困った人でありうる」という意図や「お互い様」という語り口があったとしても、現実には弱い立場や誤解されやすいマイノリティの側がより強くスティグマの影響を受けるため、結果的に差別や誤解を増幅する形になります。
2. ステレオタイプの助長
- 本には、「タイプ」「事例」として特定の症状名や行動パターン、さらには動物の比喩が用いられています。単純な分類・イメージ化(たとえば「机が散らかっている→ADHD」、「愛着障害はすぐ不安になる」など)は、個々人の多様性や成長の可能性を無視し、既存の性格ステレオタイプを助長します。
- 読者の多くは深い専門知識を持たず、“イメージで理解する”傾向が強い。そのため、著者や出版社の意図以上に「こういう困った行動は〇〇障害の人がやる」といった短絡的認知が広がりやすい構造があります。
3. 「他者化」の心理メカニズム
- 動物に例える表現や“困ったさん”という呼称は、意図せず「自分たちとは違う他者」と感じさせることがあります。これは“自分と異質なもの”を遠ざけたいという人間の防衛本能にも結びつきやすく、当事者との心理的距離を広げ、共感や理解の芽を摘みやすくなります。
4. 対立構造の強調(自己防衛機制)
- 帯や本文で「なぜ私があの人の尻拭いを?」と強調されているように、相手を“トラブルメーカー”と見立てて「どう対処するか」に主眼が置かれています。読者が「彼/彼女=問題の元凶」として責任転嫁しやすい心理的土壌(防衛機制、スケープゴーティング)が醸成されています。
5. 当事者のアイデンティティへの脅威・痛み
- ASD等の診断名を持つ本人や当事者団体は、自己の社会的・人格的アイデンティティを否定・矮小化されることに強い脅威を感じています。社会的アイデンティティ理論によれば、自分たちの集団が否定的に描かれることには激しく抵抗(強い反発や批判)が生じやすいのは自然です。
- 実際、記事やネット上でのコメントには「自分を障害や変わった特徴でひとまとめにしないでほしい」「生きづらさがさらに増す感覚がある」といった生々しい声が散見されます。
6. 著者の意図と受け手の解釈の乖離
- 著者の「愛らしさ」「協力しあうため」といった主観的意図が、実際の社会的受容や現実の痛み・苦しみとは深く乖離しています。差別は意図ではなく“どう受け取られるか”“何を社会に定着させるか”が問題となり、善意や軽いユーモア、キャッチーな表現が逆効果を生むことがあります。
7. まとめ
一連の炎上や批判の心理的背景には、人間の認知バイアス(単純化・分類)、他者化、防衛機制(スケープゴート化)、当事者のアイデンティティ保護欲求、著者意図と社会的影響のギャップなど、多層的な心理メカニズムが複雑に絡み合っています。
結果として、「困った人」「タイプ」「動物」などの表現は、誰しもが持ちうる無知や不安、ストレスのはけ口となったり、既存の偏見を強化する媒体となりやすい――この落差が強い社会的反発につながったといえるでしょう。